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コラム

祭りとコミュニティが、街の魂をつくる 。【前編】池袋西口、私の原点

※この記事は、筆者のnoteに掲載した記事です。

1964年生まれ。池袋西口育ち。

私が中学3年の春、区画整理による立ち退きで、この街を離れた。

あれから半世紀近くが経つ。今、池袋西口は三菱地所と東武鉄道による史上最大規模の再開発が動き出し、2043年には高さ270mの超高層タワーが建つという記事を目にした。

喪失感と期待感が、不思議な形で混ざり合っている。この記事は、そんな複雑な感情を正直に書いたものだ。

山形から上京した両親と、風呂なしアパートの日々

両親はふたりとも山形県の出身。結婚と同時に上京し、池袋西口近くの風呂なしアパートに新居を構えた。高度経済成長期の東京では、そうした若い夫婦が全国から集まっていた時代だった。

当時の西口界隈には、いくつか空き地もあって、子どもたちにとっては絶好の遊び場となっていた。野球、サッカー、缶蹴り、ドッジボールなど。歳の差関係なく、日が暮れるまで走り回っていた。

夜になると、家族で近所の銭湯に向かう。タイル張りの広い浴槽、番台のおばさん、脱衣場に置かれた扇風機。狭いアパートでは得られない「広さ」が、銭湯にはあって、みんなお憩いの場となっていた。中には背中に絵の描かれた人たちもいて、子供ながらに凝視していた。

戦後の池袋西口は、闇市から始まった街でもある。ヤミ市が最盛期には東西合わせて1,200軒規模にまで膨らみ、その後の都市整備を経て徐々に姿を変えた。私が生まれた1964年は、東京オリンピック開催の年。その混沌の名残をまだ街のそこかしこに感じられた時代だった。雑多で、混沌として、それでいて確かに生きていた街。

東武デパート新館オープン──屋上から見た「世界の果て」

私が小学校に上がるころ、西口に大きな変化が訪れた。東武百貨店が新館を増築し、15階建ての建物が池袋の空に聳え立ったのだった。

当時、新宿では高層ビルの建設が始まっていたが、池袋でこれほどの高さの建物は珍しかった。開業して間もないある日曜日、家族で屋上に上がった。

エレベーターのドアが開き、屋上に出た瞬間の、あの光景を忘れることができない。

眼下に広がる西口の街、遠く霞む武蔵野の丘陵、東の空に続く都市群。自宅のアパートを探し、小さく見える街並みに驚いた。7歳の私には、世界の果てまで見えているような気がした。

その東武百貨店が今まさに、再開発の中心地となっている。

ローラースケート場、ロサ会館、インベーダーゲームの熱狂

小学生時代の西口公園には、屋外のローラースケート場(内側にはテニスコート)があった。

テレビでは「ローラーゲーム」が放映され、東京ボンバーズといったチームが人気を集めていて学校でも話題になっていた。学校が終わるとカバンを放り投げ、友達と連れ立ってスケート場へ向かう。転んで膝を擦りむいても、また立ち上がって滑り続けた。

今、そこには東京芸術劇場が建っている。1990年に竣工した、池袋のランドマークのひとつだ。当時の面影は一つもないが、ガラス張りの壁面を見るたびに、子供の頃の記憶がよみがえる。

小学校の高学年位から西口の繁華街で必ず立ち寄ったのがロサ会館だった。映画館、ボウリング場、ゲームコーナー。昭和の時代が詰まっている娯楽場。1978年前後、インベーダーゲームが日本中を席巻したあの熱狂は、ロサのゲームコーナーでも起きていた。硬貨を握りしめ、モノクロの画面を食い入るように見つめる。隣では強面のお兄さんも黙々とプレイしている。たまに「子供たちは遊びすぎんなよ」と声をかけてくれた。怖くなかった。あの頃の大人と子どもの距離感は、今とはまるで違った。

そのロサ会館も、今回の再開発区域に含まれている。

昭和の西口を歩くということ

「池袋の出身です」と言うと、たまに「シティーボーイですね」と返ってくることがある。

もっとも「シティーボーイ」という言葉自体、今どきほとんど使わないが。そのたびに二重の意味で苦笑いをしてしまう。私が育った昭和の池袋西口は、おしゃれとは対極にあった。デパートにも当時はやったジャージで行っていたし、デパ地下にも商店街同様にエプロンやサンダル履きの主婦が買い物に来ている。ブランドでも、洗練でも、都会的なセンスでもない。もっとずっと泥臭い、人情味のある街だった。

「シティーボーイ」のイメージが定着したのはおそらく、1980年代以降に池袋が副都心として整備され、ファッションビルや大型商業施設が集積してからだ。私が離れた後の話である。私よりも若い世代は、TVドラマ「ウェストゲートパーク」のやんちゃなイメージもあるようだが。

もう昔の話なので、正直に書いておこうと思う。

1970年代の池袋西口繁華街は、今の基準では「子どもが通る場所」ではなかった。駅に向かうには繁華街を抜けるしかなく、中学生時代に夕暮れ時に友達と歩いていると「社長、今晩どうですか?」と声をかけられることも日常だった。

空き地で遊んでいると、トルコ風呂(今のソープランド)の非常階段を行き来するセクシーな女性の姿が見えた。駅前に抜ける道沿いにあるヌードスタジオの前にネグリジェ姿で腰かけている女性の横を、家族連れで普通に通り過ぎていく。

今の感覚で言えば「考えられない」光景かもしれない。しかし当時の私たちにとって、それは街の「普通の風景」の一部だった。咎める大人も、怯える子どももいなかった。街が、良い意味でも悪い意味でも、むき出しに生きていた。

東京新聞のアーカイブ写真(1974年2月撮影)には、当時の西口公園の様子が記録されている。人けのない公園、屋上にボウリングのピンが立つ東方会館(私が初めてボウリングをしたのもこちら)、そしてその周囲に連れ込み宿やトルコ風呂やキャバレーが並ぶ風景。「集う子どもたちは、目の端に映る風景を当然のものとして遊んでいたのだろう」と記事は書いている。まさに、その通りだった。

サンシャイン60の誕生と、西口から東口へ

1977年、丸井が西口にオープンした。それからというもの、中学校帰りに友達と丸井の店内を通り抜けて帰るのが毎日のルーティンになった。流行のファッションを横目で眺めながら店内をショートカットする。「丸井を通る」という行為そのものが、ひとつの文化だった。

翌1978年、サンシャイン60が開業した。

通っていた小学校の教室の窓からは、工事が進むにつれて少しずつ空へと伸びていく姿が見えた。「あのビルはどこまで高くなるんだろう」と友達と話しながら、その成長を毎日眺めていた。サンシャインのある東口方面は駅前の西武百貨店やパルコくらいにしか行かなかったが、開業後は東口に遊びに行く機会が増えた。当時の池袋にとって、本当に「ビッグニュース」だった。

ちなみに1970年代まで、池袋の中心は西口だったと聞く。サンシャイン60の建設により街の重心は東口へと移っていった。その転換をリアルタイムで体感した世代として、この変化は肌感覚として刻まれている。

極真空手の総本部と、生まれた年の偶然

中学校に向かう途中の道に、異様な空気を放つ建物があった。極真空手の総本部道場だ。

フルコンタクト空手を世界に広めた大山倍達総裁が、西池袋に本部道場を竣工させたのは1964年11月。私が生まれたのと同じ年。それを知ったのは大人になってからだが、なんとなく縁を感じる。

中学からの帰り道、空手着を着た外国人選手がよくランニングをしていた。鍛え上げた体、張り詰めた空気。小学校の同級生も通っていたが、当時は近寄りがたかった。極真は「喧嘩空手」とも呼ばれ、その強さはテレビや漫画『空手バカ一代』を通じて子どもたちの間にも知れ渡っていた。怖くて、かっこよくて、自分とは縁遠い世界だった。

ところが大人になってから、その記憶が突然蘇った。千葉に引っ越した時、近くに支部道場があり、思い切って通い始めたのだ。幼い頃に横目で見ていたあの空気が、ずっと心のどこかに引っかかっていたのだと思う。街で刷り込まれたものは、何十年も経ってから形を変えて表れる。

ちなみに総本部道場はすぐ近くに移転し、毎年ふくろ祭りの会場で演武を披露しているらしい。半世紀以上、この街に根を張り続けている。

池袋を離れてから

区画整理で池袋を離れ埼玉へ引っ越した後も、この街との縁が切れることはない。

社会人になってからは板橋に居を構えた。転勤で高崎へ行き、結婚して板橋に戻り、その後千葉へ。池袋に住みたいと思ったこともあったが、家賃が高くて手が届かなかった。それでも池袋は、どの時代も「通いに行く街」だった。

引き寄せられていたのだと思う。理屈ではなく。

高校生のときも、友達に会いに定期的に池袋へ足を運んだ。当時のたまり場はチェーンの居酒屋か、西口界隈の小さな個人店。今だから正直に書くが、高校生の頃から地元の友達同士、ちょくちょくお店でお酒を飲み、カラオケで昭和歌謡を歌っていた。昭和という時代のおおらかさ、というか緩さが、そこにはあった。

ある夜遅く、飲みすぎた友達を介抱しようと東口の公園で過ごしていた。そこへ警察官が来て、揃って池袋署に補導されたことがある。

あの頃の失敗は、今となっては笑い話になる。そういう「笑い話になる失敗」を積み重ねられる街が、池袋西口だ(笑)

区画整理の立ち退き──別れの春

中学3年に上がるとき、区画整理による立ち退きで家族とともに池袋を離れ、埼玉へ引っ越すことになった。

あの喧騒も、銭湯の湯気も、お祭りや繁華街の呼び込みの声も、すべてを置いて引っ越す日の感覚は今でも覚えている。何か大切なものを、街ごと置いてきてしまったような感覚。子どもだった私には、うまく言葉にする術がなかった。

後に、かつて住んでいた住宅地がどうなったかを目にした。知っている人も、なじみの店も、ほとんどが消えていた。街並みは整い、道路は広くなり、新しい建物が並んでいた。でもそこには、私が知っていた「あの場所」はもうなかった。区画整理とはそういうものだ。地図の上では同じ場所でも、街の記憶ごと上書きされる。

この体験があるから、今回の再開発の記事を目にしたとき、複雑な感情が湧いてきた。

池袋西口の駅前は、今もあの頃の名残をわずかに残している。駅前のロータリー、ロサ会館の看板、繁華街の裏路地の空気、整然としない雑多な一角。通う回数はかなり減ってしまったが、それでも自分が生まれ育った場所であることは変わらない。そしてその風景が、再開発によって今度こそ完全に塗り替えられようとしている。

都市の発展に個人の記憶は関係ない。それはわかっている。わかっていても、やはり寂しいと感じるのは普通の感覚だ。

雑多さという文化──昭和の街が持っていたもの

再開発のニュースを見るたびに、ある感覚が頭をよぎる。

整備されるほど、街から「人間の匂い」が消えていく。

昭和の時代には、今の街には存在しないものが数多くあった。それを一言で表すなら「人間の密度や温度」だろうと思う。善悪、老若、清潔と混沌が、何の仕切りもなく同じ路地に詰まっているという感覚なのかもしれない。

大人と子どもが混在していた空気は、今思えば豊かな教育だった。ゲーセンで「遊びすぎんなよ」と声をかけてくれた強面のお兄さん、ドッジボールをやっていると一緒に中に入ってくるおじさん、繁華街を素通りさせてくれた呼び込みの人たち、銭湯でフルーツ牛乳をご馳走してくれる近所のおじさん。子どもは「子ども専用の安全な空間」ではなく、大人の世界に半分足を踏み入れながら育っていた。その混在の中で、世の中の複雑さを肌で覚えていった。今の子どもたちが学べない何かが、あそこにはあった。

個人商店の店主との会話も、今では失われた文化なのかもしれない。常連と店主の間には、値段に換算できないやりとりがあった。駄菓子屋や文房具屋、お菓子屋など、「〇〇さんちの子どもか」と顔を覚えられ、「今日は早いな」と声をかけられる。街の中に自分の居場所があるという感覚は、大型商業施設では絶対に生まれない。チェーン化・均質化が進む現代の繁華街には、その余白がない。

そして祭りや地域行事が生む連帯感。これは今も、ふくろ祭りという形で生き続けている。だが、地域の商店街が主体となって祭りを作り上げる力は、再開発が進むにつれ確実に細っていく。テナントビルに入る全国チェーンには、祭りを担う「地元」がない。再開発後の街に、4,000人が担ぎ手として集まるような祭りを支えるコミュニティが残るのか、正直なところ不安だ。

都市計画の言葉で言えば、これらは「非効率」だ。空き地は開発し、個人商店は大型施設に統合し、雑多な繁華街は整備する。合理性の観点からは正しい。しかし都市の魅力とは、合理性だけで測れない何かに宿るものだとも思う。

昭和の池袋西口は、決して「おしゃれな街」ではなかった。
危なくて、汚くて、整っていなかった。
それでも、あそこには生きた人間がいた。

ふくろ祭りという絆

離れてからも、学生の頃は毎年9月になると池袋に戻っていた。ふくろ祭りのためだ。

1968年(昭和43年)、池袋西口の4つの商店会によって始まったこの祭りは、今年で58回目を迎える。「都内の他の繁華街にも負けないにぎやかなまちにしよう」という地元の商店街と町会の思いから生まれた、純粋な民の祭りだ。

神輿16基、担ぎ手4,000人超が池袋の街を練り歩く宵御輿の大パレード。池袋御嶽神社の15町会による約30基の町神輿の連合渡御。今では年間100万人が訪れる東京有数の秋祭りに成長した。

子どもの頃から毎年楽しみにしていたこの祭りは、池袋を離れた後も私と街をつなぐ細い糸だった。街にとってお祭りは大切な存在だ。この祭りが続く限り、西口の魂は消えない。

門前仲町でお神輿を担ぐ理由

今、私は江東区・深川でお神輿を担いでいる。

深川の祭りは、三年に一度の富岡八幡宮例大祭で知られる江戸の大祭だ。なぜ私はお祭りが好きなのか。

答えは単純だ。子どもの頃に池袋西口で味わった、あの祭りの楽しさと興奮が、今も体の奥に刻まれているからだ。神輿を担ぐときの一体感、街全体が沸き上がる熱量、見知らぬ人と肩を並べて同じ方向へ進む感覚。ふくろ祭りで育った少年は、半世紀を経ても、その感覚を求めている。

祭りとは、街への愛着の最もシンプルな表現だと思う。そして祭りこそが、コミュニティの核だ。場所が変わっても、その感情の根は、池袋西口の路地にある。

2043年、高さ270mのタワーが建つ日

現在進行中の再開発を、データとして整理しておく。

事業の概要(出典:池袋駅西口地区市街地再開発準備組合・東武鉄道、2024年3月公表)

A街区:地上41階・地下4階・高さ約220m|オフィス、商業、情報発信施設

B街区:地上50階・地下5階・高さ約270m|オフィス、商業、ホテル、駅施設

C街区:地上33階・地下6階・高さ約185m|オフィス、商業、ホテル、住宅

D街区:公園・東武鉄道個人施行区域

施行面積は西口地区約4.5ha+池袋駅直上西地区約1.6ha、合計約6.1ha。延床面積は約582,700㎡に及ぶ。事業協力者として三菱地所・三菱地所レジデンスが参画。2024年9月、東京都都市計画審議会が都市計画変更案を可決した。

スケジュール(2026年2月・豊島区2026年度予算発表時点)

2026年度:権利変換計画の策定、北デッキ概略基本設計に着手

2027〜2030年:組合設立・権利変換・解体着手

2030年代〜:本格的な建設工事

2043年度:全体竣工目標

また、旧池袋マルイ跡地に建設されたIT tower TOKYOが2025年12月に竣工、2026年春に開業した。西口五差路に面し、池袋駅と地下直結するIT拠点として、新しい西口の顔になりつつある。

2043年、私は79歳でタワーを見上げる

順調にプロジェクトが進み、予定している2043年に全体竣工を迎えるとき、私は79歳だ。

その日、高さ270mのBタワーの前に立って、空を見上げる。その時に何を感じるだろう。

幼少期に家族と共に東武百貨店の屋上から見た景色。あの日の眺望と、2043年の眺望が、ひとりの人間の記憶の中で重なり合う。それが都市というものの本質なのかもしれない。

街は変わる。でも、祭りとコミュニティが生きている限り、街の魂は消えない。そう信じたい。

区画整理で立ち退かされても、半世紀経っても、私は池袋の街が好きだ。池袋西口の変化を、これからも見続けていくつもりだ。

→ 後編「不動産プロが「祭りと人情」にこだわる理由」へ続く

著者:柴田光治
株式会社トラストリー代表取締役/深川くらし編集長
宅地建物取引士・2級ファイナンシャルプランニング技能士深川エリアを拠点に不動産仲介とリノベーションを手がけています。不動産・建設業に携わって約40年。バブル崩壊・リーマンショック・東日本大震災を経験してきました。現在は千葉・外房の自宅と深川の事務所を行き来する2拠点生活を送りながら、メディア「深川くらし」を通じて、この街の暮らしと不動産にまつわる情報を発信しています。note:https://note.com/k_shibata

参考資料

・豊島区「池袋駅西口まちづくりについて」(2024年)

・豊島区 2026年度予算発表(2026年2月2日)

・池袋駅西口地区市街地再開発準備組合・東武鉄道 都市計画素案公表資料(2024年3月)

・NPO いけぶくろねっと「池袋駅西口再開発のスケジュール」(2026年2月3日)

・ina-media「池袋駅西口地区再開発|3棟270m級タワーが2043年に誕生」(2026年3月30日)

・豊島区「第58回ふくろ祭り」開催発表資料(2025年)

・東京新聞デジタル「1974年2月・池袋西口」(写真資料)

※本記事は筆者のnote(https://note.com/k_shibata)に掲載した記事を、深川くらし読者向けに一部加筆・編集したものです。

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